24日、「川柳はいふう」46号が出来しました。

特集は、初代柄井川柳にちなむ柄井家の過去帳について。
学術的な考察の最新として纏めたのは、初代川柳墓碑修復における関連知識を纏めておこうという意図です。
今号の目次は、

川柳の歴史文化の研究・継承と文芸的な川柳作品のを目指す川柳雑誌です。
ご一読くださいませ。
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24日、「川柳はいふう」46号が出来しました。

特集は、初代柄井川柳にちなむ柄井家の過去帳について。
学術的な考察の最新として纏めたのは、初代川柳墓碑修復における関連知識を纏めておこうという意図です。
今号の目次は、

川柳の歴史文化の研究・継承と文芸的な川柳作品のを目指す川柳雑誌です。
ご一読くださいませ。
川柳はいふうは初代柄井川柳にちなむ過去には多くスポットを当てますが、現代川柳から先の将来についてはどういう立ち位置なんでしょう。私はすべて地続きと考えていますが、分断されていると言う人もいます。特集を組んで論じて欲しいところです。
ありがとうございます。
現代の事は、今の皆さんがよく知っている通りで、私が余計なことを言う必要はないと存じます。過去が、忘れられ、人によっては、もう六大家なんか死んでしまったのだから○○師のことなどどうでも良い・・・などと創始者の事を無視(知らないことの裏返しでしょう)する方がいらっしゃいます。
残念なことです。それぞれの創始者には、川柳に対するビジョンがありました。
過去を忘れることは、文化としての誇りや愛情を失うことと同じです。
誰もやらない過去のまとめ(正しい知識としての記録)をできるだけ正確にしておこうということで「川柳はいふう」に研究成果をまとめるようにしています。
川柳は、分断された文化ではなく、279年に渡って一本の歴史の上にあります。
これを避けようとして、「短詩」とか「草詩」、「柳句」「寸句」・・・と改名運動を行った一派もありましたが、結局は「川柳」を名乗っているのは、引き続いてきた過去の作品や文化に何がしかを感じて来たからでしょう。
明治期、目の前の明治の川柳(明治柳風狂句)に違和感を覚えた阪井久良伎翁が、「柳多留に還れ」という復古運動を示したことから、やがて新聞柳壇の作家たちが集合して今日の(新)川柳の元ができましたが、久良伎翁もその弟子の雀郎翁も旧派と呼ばれた柳風会と交流し、歴史文化と作品の交流をしていました。分断ではなく、自然な形で、文化が継承されていきました。
私は、久良伎・雀郎・三柳系にある川柳家であり、作家としては、新しい捉え方、新しい表現の模索をする立場にありますが、十五代脇屋川柳師の薫陶も受け、名を嗣いだ身として、伝統文化としての川柳と宗家の仕来たりを守り次に継ぐ役割を与えられてしまいました。
そんな意味で、大事な項目については、正確に記録して伝えることが使命の一つで、今回の「過去帳」なる文芸とは別次元の事象にも手を付けねばなりません。
何万点もの川柳史料をかかえ、これを次世代に継ぐ器を作ることも役割の一つなのでしょう。
その「地続き」を大切にするためにも、過去を知らねばなりません。
過去を知り、今を位置づけることで、初めて新しい川柳の在り方が見えてくるはずです。
ただ「現代」とつければ新しい川柳になるわけではありません。
本当の革新は、伝統の中からしか生まれないのも真実です。
かこの書き物を見て頂ければ、「川柳はいふう」誌上にも「川柳さくらぎ」自害にも、股「川柳学」の評論の中にも、川柳という歴史の一体性について書き続けてきました。
ご希望なら、また違う視点で損吾部分を捉えてみたいと思います。
「川柳点」から「川柳風」へ。そして初めて名前がついた「俳風狂句」、これを受けた「柳風狂句」を経て、明治の「川柳狂句」といった恣意的呼び方から「川柳」という元祖のなを文芸名としたジャンルになり279年となったのです。
もちろん、川柳の前には、俳諧の文化があり、さらには倭歌の文化まで繋がっています。
誇りを持って、どうぞ新しい表現を拓いてやってください。
くり返しのみでは、文化は窒息してしまいます。
与生さんの作品に大きな期待を持っております。