(写真はイメージです)
川柳の祖・柄井川柳
~なぜ「川柳」が文芸の名前になったのか?~
私たちは日頃、五・七・五の十七音で人間や社会を詠む文芸を「川柳」と呼んでいます。俳句、短歌、川柳。あまりにも当たり前に使っている「川柳」という言葉ですが、この名称は、一人の人物の俳号から生まれたということはご存じだと思います。その人物こそ、江戸時代中期に活躍した初代・柄井川柳(からい・せんりゅう)です。以前のブログでも取り上げましたが、川柳の始祖と呼ばれる人物でもある柄井川柳をもう少し深堀りしてみたいと思います。現在では「川柳の祖」「川柳の始祖」などと呼ばれる柄井川柳ですが、興味深いことに、実は本人がたくさんの自作句を発表して新しい詩型を作ったわけではありません。柄井川柳の最大の才能は、数え切れないほど寄せられる句の中から優れた作品を見抜く「選句眼」にありました。そしてその一人の名選者の俳号が、一つの文芸そのものの名称になったのです。
■ 柄井川柳とはどんな人物だったのか
初代柄井川柳は、享保3年(1718年)に江戸で生まれました。名は正通、あるいは正道とする資料がありますが、通称は八右衛門です。緑亭、無名庵などの号も用いました。柄井家は祖父の代から浅草・龍宝寺門前の名主を務めており、川柳自身も宝暦5年(1755年)から龍宝寺門前の名主となりました。つまり柄井川柳は、最初から文芸だけを仕事にしていた人物ではありません。江戸の町を支える名主という立場にありながら、庶民の生活、人情、世相を身近に見つめていた人物だったのです。その環境も、後の「川柳点」の選句眼に何らかの影響を与えたのではないかと想像すると興味深いものがあります。
■ 40歳で前句付の「点者」になる
柄井川柳の人生が大きく動いたのは、宝暦7年(1757年)です。40歳のとき、前句付の点者、つまり現在でいう「選者」として本格的な活動を始めました。当時の江戸では「前句付」という文芸が庶民の間で大変な人気を集めていました。前句付とは、あらかじめ示された七・七の「前句」に対して、五・七・五の「付句」を付ける遊びです。現在の川柳のように、最初から五・七・五だけで完結する作品を作るのとは少し違います。たとえば七・七の前句がお題として示され、それに最も面白く、気が利き、しかも前句によく響き合う五・七・五を考えて応募するのです。江戸庶民にとって、これは知恵と言葉の腕を競う一種の文芸コンテストでもありました。
■ 「万句合」とは何だったのか
そこで重要になるのが「万句合(まんくあわせ)」です。万句合では、点者が課題となる前句を印刷して配り、それに対する付句を広く募集しました。集まった作品を点者が選び、高点句、すなわち優秀作品を印刷して発表します。現在の感覚でいえば、大規模な公募川柳大会と誌上句会を組み合わせたような仕組みだったともいえるでしょう。柄井川柳は宝暦7年8月25日に最初の万句合を興行したとされ、その後、選者として急速に評判を高めていきます。宝暦12年(1762年)には一回の総句高が一万句を超えたとの記録もあり、その人気の大きさがうかがえます。
■ 33年間で約230万句
柄井川柳が点者として高く評価された理由は、選句の巧みさだけではありませんでした。時代の空気を敏感につかむ感覚と、選句の公平さでも信頼を得たとされています。そのため川柳の万句合には多くの作品が寄せられ、柄井川柳は約33年間にわたり江戸を代表する前句付点者として活躍しました。資料によれば、その間に集まった総投句数は約230万句(諸説あり)に達したとされています。現代の私たちが考えても、気の遠くなるような数字です。これだけの作品と向き合い、そこから優れた句を選び続けたのですから、柄井川柳は「作者」というより、まさに日本文学史上でも特異な「選者」であったといえるでしょう。
■ 「川柳点」と呼ばれた選句
柄井川柳の選句は非常に人気が高く、やがて彼が選んだ句そのものが「川柳点」と呼ばれるようになります。ここが「川柳」という名称の誕生を考えるうえで重要なところです。最初から「川柳」という文芸ジャンルが存在していて、柄井川柳がそれを詠んでいたわけではありません。もともとは前句付という文芸があり、その世界で柄井川柳という優れた点者が登場しやがてその名前「川柳」が文芸の名称となったのです。
■ 『誹風柳多留』の誕生
その歴史を大きく動かしたのが、明和2年(1765年)に刊行された『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』です。柄井川柳の万句合で選ばれた句の中から、前句がなくても意味が分かり、一句だけでも鑑賞できる優れた付句を集めて刊行したものでした。初編では、呉陵軒可有が川柳評万句合の中から句を選びました。これが画期的でした。本来、付句は七・七の前句があって初めて成立するものでした。ところが『誹風柳多留』では前句を取り払い、五・七・五だけを読ませたのです。すると五・七・五の中に、江戸庶民の暮らし、人間関係、夫婦、親子、仕事、失敗、欲望、喜怒哀楽などが、生き生きと浮かび上がってきました。五・七・五が前句から離れ、一つの独立した短詩として歩き始めたのです。
■ 『柳多留』が開いた新しい文芸
『誹風柳多留』は好評を博し、その後も刊行が続きました。初代川柳の選にかかわる部分については資料によって23編・24編という数え方の違いがありますが、少なくとも初代川柳の時代に多数の編が刊行され、その後も代々の川柳らに受け継がれました。シリーズ全体では江戸後期まで長く刊行され、川柳史に巨大な足跡を残しています。国立国会図書館にも『誹風柳多留』各編や『初代川柳選句集』が所蔵されています。ここで大切なのは、『柳多留』によって単に面白い句がたくさん残ったということだけではありません。人間や世相を五・七・五だけで描くことができる。その可能性が広く認識されるようになったことです。これこそ現代川柳へつながる大きな一歩でした。
■ 柄井川柳は「川柳を発明した」のか
柄井川柳はしばしば「川柳の創始者」と紹介されます。これは大きな意味では間違いではありません。台東区の公式観光情報でも「川柳の創始者」と紹介されています。ただし、より正確にいえば、柄井川柳がある日突然、五・七・五の「川柳」を発明したわけではありません。前句付は柄井川柳以前から存在していました。その長い流れの中で、柄井川柳の卓越した選句、『川柳評万句合』の人気、そして『誹風柳多留』の刊行などが重なり、付句が前句から独立して鑑賞されるようになりました。その結果、柄井川柳の号であった「川柳」が、後世になって文芸の名称として定着したのです。柄井川柳は「川柳という独立した文芸が生まれる決定的な道を開いた人」と表現するのが、最も実像に近いのではないかと思います。
■ 自作ではなく「選」で歴史に名を残した
さらに興味深いことがあります。それは柄井川柳自身の作品は、ほとんど残っていないということです。研究資料では発句がわずかに伝わる程度とされ、むしろ「作品をほとんど持たない点者」として特異な存在だったと指摘されています。これは現在の川柳界から見ると非常に興味深いことです。私たちは優れた川柳家というと、まず「どんな名句を残したか」を考えます。しかし柄井川柳の場合、後世に残った最大の作品は、自分自身の一句ではなく、2百万句以上の句と向き合って磨き上げた「選」そのものだったともいえるのです。良い作品を見抜く選者がいて、その選によって作者が育ち、文芸全体が育っていく。現代の句会にも通じる話ではないでしょうか。
■ 龍宝寺と柄井川柳
柄井川柳を語るうえで、東京・蔵前の龍宝寺は重要です。柄井家は祖父の代から浅草龍宝寺門前の名主を務め、川柳自身も宝暦5年(1755年)からその名主を務めました。そして寛政2年(1790年)9月23日、柄井川柳は73歳で亡くなります。墓は現在も東京都台東区蔵前4丁目の龍宝寺にあり、東京都指定旧跡となっています。墓石には「契壽院川柳勇縁信士」という戒名と、寛政二年九月二十三日の没年月日が刻まれています。龍宝寺には初代柄井川柳の句碑もあり、現在では「川柳寺」とも呼ばれています。
■ 9月23日の「川柳忌」
柄井川柳の命日である9月23日は、現在「川柳忌」として知られています。毎年この命日には、川柳の祖を偲び、その功績に思いを寄せる川柳人が龍宝寺に集います。それが川柳人協会主催による「川柳忌」です。私も毎年9月23日、龍宝寺で行われる川柳忌に参加しています。今年は54名の川柳人が龍宝寺に集い柄井川柳の供養を行い献句を添えています。その場所に眠る柄井川柳が、約270年前、無数の付句を一枚一枚読みながら「選」を続けていたことを思うと、現代の私たちが句会で一句を作り、選者が一句を選ぶという営みも、遠い江戸時代から一本の線でつながっているように感じられます。
■ 「柄井川柳」という名前が残したもの
柄井川柳の号は、その後も後継者へ受け継がれていきました。しかし、それ以上に大きなことは、「川柳」という二文字が一人の俳号を超えて、日本を代表する短詩型文芸の名称になったことです。これは文学史上でも珍しいことではないでしょうか。一人の選者の名が、時代を超えて文芸そのものの名前になったのです。その背景には、柄井川柳の優れた選句眼と、江戸庶民の言葉を受け止める懐の深さがありました。
■ 約270年後の私たちへ
宝暦7年(1757年)、40歳の柄井八右衛門が前句付の点者として歩み始めたとき、自分の俳号が後世、日本中で使われる文芸の名称になるとは、おそらく想像もしなかったでしょう。それから約270年。私たちは今も「川柳を詠む」「川柳を選ぶ」「川柳を楽しむ」と言っています。句会では一枚の投句用紙に思いを託し、選者は多くの句の中から心に響く一句を選びます。形こそ変わりましたが、その根底には柄井川柳の時代から続く「作る人」と「選ぶ人」の交流があります。川柳は、庶民の生活から生まれ、人間を見つめながら育ってきた文芸です。そして、その文芸に自らの名を残した柄井川柳は、優れた作者というより、優れた句を見抜き、育て、世に送り出した名選者でした。「川柳」という二文字を口にするたび、その向こうには江戸・浅草で膨大な投句に向き合った柄井八右衛門の姿があります。川柳を愛する者として、ときにはその原点に立ち返り、初代柄井川柳が残した大きな足跡に思いを馳せてみたいものです。
柳山
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