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 先日、テレビのドキュメンタリー番組を観ていたら、終活カフェのことが紹介されていた。終活という言葉が定着して随分経つだろうか。私も年齢的に終活は他人事ではない。なんせ前から見ても後ろから見ても立派な(?)独居老人だからである。そんな訳で、この番組も興味深く拝見した。
 ネットで探ってみると、終活カフェにもいろいろな形態があるようである。設置者によって運営がかなり異なる。
 人間は生まれた時から動脈硬化が始まっている。どこかのお医者さんがそんなことを言っていた。同じように人は生まれた段階で既に死へ向かって歩み始めていると言ったら大袈裟になるだろうか。しかし、ある程度の年齢に達すると老いを意識し始め、日常の中で死を考えることも頻繁になってくる。これも確かな事実であろう。
 意識の持ち方も個人差があるだろうか。齢を重ねても若く健康でありたいと願望することは、裏を返せば老いや死を恐れている証しでもある。そしてそれらから逃れようとすると、なおさら余計に追いかけられる。まさに影のような存在との関係性なのである。そうは言いながらも頭の隅のどこかで、それらに対して観念する潜在意識もあるだろう。願望と観念の比率は心の中で少しずつ変化していく。死ぬ時には願望は消滅して一気に観念することとなる。
 散骨とか樹木葬とか新しい形の葬儀を望むことは、自分の死を思い描きながら、死んだ後の自分についても何らかの関わりを持とうとする執着でもある。冷静に考えれば、死後の己の取り扱いは残された者が考えることである。相続などの法的・経済的な事項を除けば、生前に遺言があったとしても、死んでしまえばそれ以上の指示はできない。遺言にも絶対的な強制力はない。
 冒頭に話したテレビ番組では、実際に棺へ入ってみる体験コーナーが紹介されていた。試しに中へ入った中年と思しき人物が個人的な感想を述べていたが、「死んだら感想も何もなくなるんだよね」と思わずツッコミを入れたくなった。死んだ時点で無に還ることはすべての人間に対して平等である。
 そんなことを心で呟きながらも、私も終活カフェに興味を持ち、ゆくゆくはそういったところへ通うかもしれないとふと思った。

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