毎週火曜日の午後10時から、NHK総合でドラマ10「テミスの不確かな法廷」が放映されていた(1月から3月/原作:直島翔)。
予備知識も無しにいきなり初回を観た時は些か分かりづらさを覚えたが(私の理解力の乏しさの所為もあるだろうが)、回を重ねて視聴していくと次第におもしろくなってきて、いつの間にかドラマの展開にハマっている自分に気づく。主人公を演じている松山ケンイチも実に上手い。さすがという感じである。NHKの番組ホームページから以下のとおり紹介する。
[任官七年目の裁判官・安堂清春(松山ケンイチ)。東京から前橋地方裁判所第一支部へと異動してきた彼は、一見、穏やかな裁判官に見える。 だが、その内側には絶対に打ち明けられない秘密が…。 幼い頃、衝動性や落ち着きのなさからASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)と診断された安堂。 彼は自らの特性を隠し、自分の考える“普通”を装って生きてきた。 それでも、ふとした言動が前橋地裁第一支部の面々を戸惑わせ、法廷内外で混乱を巻き起こしてしまう。 そんな安堂の元に、複雑な人間模様が絡み合う、難解な事件が舞い込んでくる。 市長を襲った青年。親友をこん睡状態に追い込んだ高校生。そして「父は法律に殺された」と訴える娘――。 やがて、安堂の特性からくる“こだわり”が、誰も気づかなかった事件の矛盾をあぶり出す。 しかし同時に、彼は自身の衝動とも格闘しながら公判に挑まなければならない。 果たして安堂は、公正に事件を裁き、真実へと辿り着くことができるのか!?]
私が惹かれたのは、毎回主人公の安堂が言う決め台詞「分からないことを分かっていないと、分からないことは分からない」である。これを1回聞いただけで素直に理解するのはなかなか難しいのではないか。こういうトートロジカルな言い回しというのはすぐに呑み込むことが案外難しい。ドラマを観ながら繰り返し聞いてやっと分かってくる。
ここに表わされている「分かる」「分からない」という概念は2層構造になっているのである。これは論理学や言語哲学の世界に通じるものである。試しにCopilotにこの文章を翻訳させてみた。回答は以下のとおりである。
[この日本語は、論理構造がそのまま英語に置き換えられるタイプの表現なので、自然な英訳はいくつか考えられます。ニュアンスを保ちながら最もストレートに表すなら次の形がしっくりきます。
“If you don’t know what you don’t know, you can’t know what you don’t know.”
日本語の反復構造をそのまま英語に移した形で、意味も忠実に伝わります。もう少し哲学的な響きを持たせるなら、こんな言い方も可能です。
“Unless you are aware of what you don’t know, you cannot recognize what you don’t know.”
“Without knowing what you don’t know, you remain unaware of what you don’t know.”
どの程度直訳寄りにするか、あるいは読みやすさを優先するかで調整できます。好みのトーンがあれば、そちらに寄せたバージョンも作れますよ]
Copilotは直訳と意訳の二通りの例文を提示してくれたが(意訳の方は哲学的な響きを持たせたとCopilotは言っているけど、どこがそうなのかは私には理解不能)、日本語の「知る」をどう捉えるかがカギとなる。「知る」を「know」だけに置き換えた前者は単層構造であり、「(un)awawe of」や「recognize」の意訳した単語が登場して「知る」が複層構造になっていることに気がつく。
三段論法という手法がある。前提から結論を導く論理的な推論のやり方で、一般的な事実や原則を示す大前提、 特定の事例や状況を示す小前提、 大前提と小前提から導かれる結論の三つから成り立っている。具体的な例として「すべての人間は死ぬ」(大前提)、「ソクラテスは人間である」(小前提)、「ゆえにソクラテスは死すべきである」(結論)が有名である。
このほか思いつくままにいろいろな例題を出すことが可能であるが、一つこんなものを挙げてみる。「黒いは形容詞である」(大前提)、「カラスは黒い」(小前提)、「ゆえにカラスは形容詞である」(結論)。しかしこれは一読して何か変だ。カラスが形容詞だなんておかしい。カラスは名詞ではないか。
もう一つ別の例題を紹介する。三段論法とは異なるが、急進的な相対主義思想の持ち主が「絶対的真理は存在しないということが絶対的真理である」あるいは「絶対的真理など一つもこの世に存在しないということが唯一の絶対的真理である」と言明したとする。それはそうなのだろうけど何か引っかかる。言われた方は、絶対的な真理が一体存在するのかしないのか、はっきりさせてよと言いたくなるかもしれない。
三段論法の例題に出てくる「形容詞」は言葉についての言葉、絶対的真理について述べたそれぞれの言明の2番目に出てくる「絶対的真理」は真理についての真理なのである。前者はメタ言語と呼ばれ、後者は強いて言えばメタ真理と呼ばれるものかもしれない(私が勝手に名付けただけだが)。
ざっくりした言い方になるが、言葉というものは、言葉とその指示するもの(意味や概念)とが組み合わされて成り立つ。指示されるものは何でも構わない。物理的なものでも心理的なものでも、はたまたカルト的なものでも何でもいい。大袈裟に言えば、言葉以外の森羅万象が該当する。言葉と切り離された固有の意味や概念なら、たとえ胡散臭いものでも全く問題はない。しかし、言葉について言い表した言葉、例えば文法的な用語(例に挙げた形容詞などの品詞)は、言葉の上の層に位置するメタ言語になる。言語表現は複層構造になっていて、そこに注目しないと「カラスは形容詞である」の矛盾に気づかない。絶対的真理が存在するかどうかについても、真理とメタ真理の複層を識別すれば例に挙げた言明もすんなり理解できてくる。
「分からないことを分かっていないと、分からないことは分からない」も典型的な複層構造の命題である。複層を踏まえれば素直に受け取れる。Copilotの意訳した英文なら、誰でも分かり易さを感じるはずだ。
文芸の世界では、敢えて分かりづらくさせて読者を困惑させるような表現(レトリック)に味わいを持たせる、少し偏屈なところがある。短詩型でもこれは当てはまる。川柳ではその対極(反動)として、一読明快のひざポンの世界を重宝する向きもあるが、晦渋な作品を好む愛好者も多い。
メタ認知という心理学用語がある。ネットで調べると大体次のように説明されている。
自分の考え方や感じ方、記憶や学習、判断などの認知プロセスを第三者視点で俯瞰して認識することであり、自分の思考について考えることであり、思考や行動の質を向上させるための心のツールになる。
つまり、認知についての認知がメタ認知である。言語についての言語であるメタ言語と同じ理屈である。
さらに検索すると、メタはもともと単独で使われる言葉ではなく、他の単語と組み合わせて意味をなす接頭語で、例えばメタファーは暗喩、メタ知識は知識についての知識を意味する。メタバース(仮想現実空間)などは既に定着した言葉になっている。最近のフィクション作品の中では、これは作り物の世界であると意識した発言や行動を指すメタフィクションの概念から派生して、メタい、メタ発言といった使い方が広まっているようである(私はよく知らない)。
物事を認識し、言語によって表現する場合、まずメタ以前の段階の思考プロセスが展開される。その後、メタ段階に入って思考することも起き得る。人間の頭の中では2層になって思考が進行する場合がある。これに気づけば、例の主人公の決め台詞はすんなり受け取れる。そうでなければ、真意が汲み取れず言葉遊びのレベルで終わってしまう。ちなみに、2層の上にさらに高次の層を構築することも可能であるが、AIならいざ知らず、人間の思考には限界があるから難しいだろうか。
物事を知ることは、未知の世界の中で正しく知る対象をきちんと掬い取ることである。それはその世界のほんの一部であろう。掬い取れたことの喜びに浸るのもいいが、依然として未知の世界は大きく広がって残されている。未知は「未だ知らない」世界であるが、その存在と状況は永遠に続くことだろう。人間はそのことに対して謙虚になるべきである。
2020年9月17日に「無知の知」、2023年9月3日に「知ったかぶり社会」のブログを書いた。大した反響はなかったが(余計なことであるが)、自分が無知であることを前提として自覚することが物事を正しく知ることにつながり、人間はそもそも様々な思い込みに囚われているものだという認識を持つことが大切である。2020年8月9日に「クレタ島の噓つき」を書いたが、噓つきの噓もメタ言語(嘘についての噓)を内包している。それに気がつけば、この謎もすぐ解けた訳である。当時19歳だった私には難しかった。
「分からないことを分かっていないと、分からないことは分からない」の決め台詞は、自分は何も知らないということをまず知りなさいという「無知の知」の教訓と意味が重なることに気づかされる。
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