(写真はイメージです)
小島六厘坊の世界
~二十代で駆け抜けた関西新川柳の風雲児~
近代川柳の歴史をたどると、驚くほど短い生涯の中で鮮烈な光を放った川柳家に出会います。その一人が小島六厘坊です。六厘坊は明治末期の大阪で新しい川柳運動を起こし、関西に「新川柳」を根づかせる大きな役割を果たしました。後に「番傘」の礎を築く西田當百も六厘坊の選に投句し、その若さと才能に驚いた一人でした。六厘坊の活動期間はわずか数年でした。しかし、その短い時間に蒔かれた種は、西田當百、川上日車、麻生路郎らへとつながり、やがて関西川柳の大きな流れとなっていきました。
■ 明治末の大阪に現れた若き川柳家
小島六厘坊は1888(明治21)年生まれとされます。家は大阪・心斎橋付近で洋服商を営んでいました。六厘坊自身も家業に関わり、小島洋服陳列場にいたと伝えられています。しかしその胸中を占めていたのは川柳でした。当時、東京では阪井久良岐や井上剣花坊らが、それまでの狂句的な川柳から脱して、文学としての新しい川柳を目指す運動を進めていました。六厘坊はこうした時代の空気を大阪で受け止めながら、単なる東京の模倣には満足せず、関西独自の新しい川柳を切り拓こうとしました。そして1906(明治39)年6月、六厘坊は柳誌『葉柳』を創刊します。大阪府立中之島図書館も『葉柳』を「大阪の川柳誌の嚆矢」として紹介しています。六厘坊がまだ二十歳にも満たないほどの若さだったことを考えると、その行動力には驚かされます。
■ 『葉柳』から始まった新しい流れ
『葉柳』の周囲には、後の関西川柳を担う人々が集まってきました。西田當百、川上日車、木村半文銭、麻生路郎などです。六厘坊の活動拠点の一つとなった小島洋服陳列場の奥には、蔵を改造した部屋があったと伝えられています。そこへ若い川柳人たちが集まり、六厘坊を中心に川柳について議論しました。六厘坊は作品への評価も激しかったようです。悪いと思えば徹底して批判し、良いと思えば徹底して褒める人物だったと伝えられています。若い仲間たちが集まり、句を作り、議論し、ときには衝突する。そこには、明治末の大阪で新しい文学を生み出そうとする若者たちの熱気がありました。
■ 西田當百との出会い
六厘坊と西田當百との関係は、近代関西川柳の歴史を考えるうえで特に重要です。當百は1906(明治39)年ごろ、「大阪新報」の小島六厘坊選の柳壇へ投句していました。その後、當百は大阪・新町の光禅寺で開かれた句会で六厘坊本人と出会います。ところが、當百が驚いたのは「六厘坊先生」があまりにも若かったことでした。當百の回想によれば、六厘坊は自ら名乗って太い声で挨拶したといいます。その姿について當百は、「眉の濃い鼻の大きい荒削りの顔の若い男」だったと書き残しています。周囲を見ても二十歳前後の若者ばかりだったため、當百は大いに予想を裏切られたようです。当時の「宗匠」といえば年長者を想像するのが普通でした。それだけに、若者が川柳の選者として堂々と座っている光景は新鮮だったのでしょう。しかし重要なのは年齢ではありません。當百が六厘坊選へ投句していた事実そのものが、六厘坊が若くして関西川柳界で相当な存在感を持っていたことを物語っています。
■ 六厘坊から當百、そして「番傘」へ
六厘坊と當百の関係をさらに大きな川柳史の流れの中に置いてみると、興味深いものが見えてきます。六厘坊は『葉柳』を通して大阪に新しい川柳の場をつくりました。ところが1909(明治42)年5月、六厘坊は病のため二十代前半という若さで亡くなります。その同じ時代に西田當百らによって関西川柳社が組織され、1913(大正2)年には『番傘』が創刊されます。そして當百に師事した岸本水府らが、やがて「番傘」を全国的な川柳運動へと発展させていきました。したがって小島六厘坊 → 西田當百 → 岸本水府 → 「番傘」の発展という一本の流れを見ることができます。もちろん、単純な師弟関係だけで説明できるものではありません。しかし、六厘坊が明治末の大阪に新川柳の火を灯し、その熱を受けた當百らが次の時代を築いたという歴史的な連続性は見逃せません。昨日このブログで紹介した西田當百のさらに一歩前に、六厘坊という若き先駆者がいたのです。
■ 東京の新川柳にも対抗した気骨
六厘坊には非常に強い自負がありました。東京の新川柳を代表する阪井久良岐と会った際にも、六厘坊は臆することなく議論を交わしたと伝えられています。六厘坊は東京で生まれた新川柳をそのまま大阪へ移植するのではなく、自分たち自身の川柳をつくろうとしていました。この反骨精神こそ、六厘坊の大きな魅力だったのではないでしょうか。若さゆえの激しさもあったでしょう。しかし、二十歳前後の青年が既成の権威にひるまず、自分の文学観を主張したところに、六厘坊という人物の真骨頂があります。
■ 六厘坊の代表句
六厘坊の作品として、現在もっともよく紹介されている一句があります。
この道のよしや黄泉に通ふとも 小島六厘坊
資料によって「この道や」とする表記も見られますが、「この道の」とする紹介例もあります。「黄泉」は死者の世界です。たとえこの道が死へ通じていたとしても、自分はこの道を行く。わずか二十代前半で生涯を閉じた六厘坊の人生を知ったうえで読むと、偶然とは思えないほど強い響きを持つ一句です。そこには、川柳という道を自ら選び、既成の価値観に妥協せず進もうとした若者の覚悟まで感じられます。
六厘坊は現在刊行されている『近・現代川柳アンソロジー』(桒原道夫・堺利彦編、新葉館出版)にも「明治40年代に興った新傾向川柳」の代表作家の一人として収録されており、同書では各作家のプロフィールと代表25句が掲載されています。六厘坊の作品をさらに本格的に研究する場合は、『葉柳』そのものと、このアンソロジーを照合しながら研究することが重要だと思います。
■ わずか数年で残した大きな足跡
六厘坊の川柳人生は、あまりにも短いものでした。しかし文学の価値は、活動した年月だけでは測れません。十代から二十代という若さで柳誌を創刊し、仲間を集め、句を選び、川柳論を語り、東京の新川柳とも渡り合いました。そして六厘坊の周囲から、西田當百、川上日車、麻生路郎ら、後の関西川柳を支える人々が育っていきました。もし六厘坊が長生きしていたなら、関西川柳の歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。それほどの可能性を持ちながら、若くして世を去った川柳家でした。
■ おわりに
小島六厘坊の生涯をたどっていると、「青春」という言葉が浮かびます。まだ二十歳そこそこの若者たちが大阪の一室に集まり、川柳について夜を忘れて議論する。互いの句を批評し、ときには喧嘩をし、それでもまた集まってくる。その中心に六厘坊がいました。そして、その若い熱気を受け止めた一人が西田當百でした。六厘坊が明治末の大阪に灯した小さな火は、當百たちへ渡り、さらに岸本水府らの世代へ受け継がれ、「番傘」という大きな流れにつながっていきました。
この道のよしや黄泉に通ふとも
短い生涯を駆け抜けた六厘坊を思うと、この一句は単なる作品を超えて、彼自身の生き方を象徴する言葉のようにも響いてきます。若くして逝った六厘坊。しかし彼が切り拓いた「この道」は、百年以上を経た現在の川柳界へ確かにつながっているのです。
柳山
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