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10日(木)龍ヶ崎市の長寿大学第2回目 講座名は「龍ヶ崎を語る」鈴木久先生。

1) なぜ竜ヶ崎市に新田義貞の墓が

① 「牛になった小坊主の絵本」牛久沼由来を絵本三冊から、「食べてすぐ寝ると牛になってしまうよ」と。「食っちゃ寝の怠け者は牛」になるという教訓。新田義貞の墓がある金龍寺は曹洞宗の寺で、国指定重要文化財「絹本着色16羅漢像」をはじめ沢山の寺宝を持っている。将軍吉宗の時幕府の命により寺が報告した 元文3年(1738年)の「金龍寺由緒・什物(じゅうもつ)等書上写(かきあげうつし)」という記録書に「牛尾払子」がある。

この書物は金龍寺2代目天隠玄鎖和尚の時でそのころ、この寺は群馬県太田にあった。

②新田家の菩提寺・金龍寺  (金龍寺は我が家から1,8キロぐらい佐貫駅東口へゆく途中)

義貞は上野國新田荘(群馬県太田市とその周辺)の人ですから、確かに墓は太田市にあります。それがどうして龍ヶ崎にあるのか?  久先生はそれを面白おかしく解き明かされた。

鎌倉幕府は義貞の鎌倉急襲で滅びますが、後醍醐天皇の建武の新政では尊氏が主役で義貞はわき役に追いやられ、最後には尊氏の軍に攻められ歴王元年(1338年)7月、藤島・燈明寺畷(福井県西4キロ)の戦で、流れ矢で不慮の死を遂げる。その後義貞の子らによってておこうは続きますが、所領は新田一族でありながら、尊氏に従った岩松氏に受け継がれてしまいます。しかしその家臣になっていた義貞血筋の横瀬氏(由良氏)が下剋上で新田の名称を復活します。しかし成繁・国繁父子は北条氏と戦い金山城を攻められ、桐生城に移されました。成繁の室(夫人)妙印尼が秀吉の関東攻めに協力した軍功が認められ、天正18年(1590年)岡見氏滅亡後の牛久領7000石が息子の国繁に与えられることになりました。

したがって新田義貞を弔う寺、太田山義貞院金龍寺も群馬太田、桐生を経て牛久新地の東林寺の地に移ります。牛久市にある得月院はこの妙印尼を開山として建てられた曹洞宗の寺で金龍寺の末寺となっています。

国繁は家康・秀忠に仕え、関ケ原合戦後1600国余の加増となりますが、家督を継いだ、貞繁が若くして急死、養子(弟)の貞長はまだ将軍へのお目見えを済ませなかったため所領没収となり由良家は一旦は断絶、その所領は幕僚となりました。しかし徳川氏は武家の名門新田氏の廃絶を惜しんだのでしょう、元和9年(1623年)貞繁の子貞長に1000石を与えたので由良氏わずか1000石の旗本として幕末まで牛久・矢田部(現つくば市)にまたがる12か村を支配しました。梶内(つくば市)には新田神社が建ち、一方1万17石の大名山口氏が城中村に陣屋を置き、通称「牛久藩」が支配することになり金龍寺も寛文6年(1666年)若柴(龍ヶ崎市)に移ることになります。

太田市の金龍寺には新田家累代の9基の五輪塔が保存されて、義貞だけの墓も別にありますが、本堂には義貞の木造が安置されているだけで、新田家の菩提所は寺宝とともに竜ヶ崎市に移されたと案内板に書いてあります。

2 女化という不思議な地名 龍ヶ崎市か牛久市か?

1)狐の恩返し

3 木村やのあんパン 発祥の地は龍ヶ崎市か牛久市か

等面白おかしく話されました。餡パンの臍の由来など、折があったらお話したいと思います。

常陽芸文の月刊「芸文」にも詳しいのでご存知の方は多いと思います。

講演お終わるころから外は荒れてきました。雷がとどろき一部に雹が降り、ちぎれた木々が道路をふさぎました。私は図書館によって新聞をちらちら眺めて帰りました。

NHK学苑の原稿をメールで送りました。これから津山番傘への原稿を書きはじめます。

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