東葛川柳会新春句会記念公演は我孫子市在住の碓田のぼる先生。
石川啄木と現代として一般に知られざることのお話は興味があった。また時代背景が日本の民主主義が確立していない明治40年前後のこと。昭和とはまた違う軍国主義が台頭していた時代プロレタリア歌人として見つめる啄木の生活の変化は初めてであった。
啄木が師事した、与謝野鉄幹・晶子の浪漫主義から自然主義に代わってゆくあたり具体性のある話で引き込まれた。
小樽から東京に出て朝日新聞の校正の仕事の中から、観念主義から大地に足のついた自然主義に代わるのの原因の一つに
奥さん節子の家出があった。やっと生活の発見をしたようだ。
氏は17歳で国鉄の労働者になり、北海道の炭鉱で働いた宿舎の腰板に描かれた啄木の歌に刺激を受けた。
韓国のインテリ労働者が日本語で書いた啄木の歌。
地図の上朝鮮国にくろぐろと
墨をぬりつつ秋風を聴く(明治43年作)
戦後の社会の教科書に4年間だけ載ったそうだ。
そのあとは高校社会の欄外で一度載ったのを見つけたそうですが。
赤紙の表紙手ずれし国禁の
書読みふけり夏の夜を寝ず
ことさらに灯火を消して
まじまじと革命の日を思ひ続ける
上の2首は下記のように改作をして歌集に載せている
赤紙の表紙手ずれし国禁の
書を行李の底に探す日
ことさらに灯火を消して
まじまじとおもいてゐしはわけもなきこと
朝日新聞で働いていたことで世相がよく見えたのでしょう。改作をして歌を発表しているというのです。
このあたりは川柳の鶴彬と違うところ。鶴は官憲に追いかけられて働くこともできなかったのでストレートに発表してしまったので29歳の若さでの獄死だったのでしょう。
「一握の砂」にも「明星」にもローマ字日記にものらない句があって今日レジュメを頂戴したのはいい収穫でした。また新しいことが分かったいい一日でした。
早めに失礼してしまいましたが、お陰でいい気分で家の溜まった仕事が片付きました。
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