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十世川柳こと平井省三氏の短冊を手に入れました。
 「青嶋陥落 日本料理俎の上の独活 十世川柳」
     十世川柳短冊

 十世川柳は、幕末の嘉永二年生れで、浅草区役所衛生課長などを務めていました。
 北窓雪雁(ゆきかり)と号して狂句界に遊び、明治37年4月、大立者であった九世川柳が亡くなると、同39年、社中の合意が成って擁立され狂句堂川柳として立机、《時事新報》の狂句選者などを務めました。

 同じころ読売新聞紙上に展開された岡田三面子(筆名・馬狂)との論争は、初の柳・狂公開論争として、転換期の川柳界に活気をもたらしたことが有名です。

 嗣号名弘会は、明治40年10月に行われ、
   担がれて貫目の知れる樽神輿
 と読みのこしています。
 川柳に政治が絡むとも思えませんですが、翌年浅草区長の汚職事件に連坐、詰め腹を切らされ在位3年あまりの明治42年に引退、柳翁とっています。
 ところが、大正2年、十一世川柳こと小林昇旭が病気で引退してしまいます。そこで、再び十世川柳として宗家を預かるはめに陥り、大正12年の病気再引退まで、10年のあいだ柳風会をリードしました。
 お宝の短冊には「青嶋(チンタオ)陥落」とありますので、大正3年(1914)のものと思われます。新川柳派の無頓着な短冊の使い方を知らない柳人が増える中、しっかりとルールに則った作法での染筆が見事ですが、句の内容は、縁語仕立ての狂句で、時事をテーマにしているとはいえ、お粗末な感じも拭えません。
 とはいえ、歴代川柳の直筆という点では、「お宝」に匹敵する存在です。
 十世川柳は、高番偏重主義(歴史や政治向きの硬い内容の句を重要視する選句)を貫き、在位中は終始社中少壮派の批判を浴びました。つまり、もっと中番(世帯人情の機微の句)に重きを置くべきという立場です。さらに、活発になっていた新川柳派の攻撃を受け、旧派の威信を保つにも苦労しました。
 引退後は、小森和洲こと十二世川柳に名を譲りますが、同年、震災で家を失い、浅草吉野町(台東区今戸)に落ち着きますが、引退後も恵まれないまま終ったようです。

 昭和3年8月11日没。享年80。東京台東区今戸の瑞泉寺に葬られています。
  ふられた割床お互に四苦八苦  (慶応2・2)
  並木の瓦斯ハ人相に花が咲  (金龍山奉額 明13)
  捕鯨会社は海産の一の銨  (明16)
  水雷が抜く敵艦の臍あたり (《時事新報》)
  残す名は花根に返る吉野町 (辞世)

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川柳お宝鑑定団 番外編001 十世川柳短冊”にコメントをどうぞ

  1. 二宮 茂男 on 2014年6月13日 at 10:59 AM :

    一泉さん おはようございます。十世川柳の立派な短冊を見せていただきました。ご入手、お手柄でしたね。ところで、読売紙上で十世川柳と論戦を展開されたという岡田三面子氏、氏のお孫さん、高木さと子さんのご意志で、葉山の海岸に記念碑建立の話しが持ち上がり、神奈川県の一川柳人として、微力を尽くしました。ご縁ですね。三柳先生、快方に向かわれておられ嬉しいです。それにしても、お忙しいでしょう。

  2. 尾藤 一泉 on 2014年6月13日 at 7:43 PM :

     こんばんは。
     骨董屋をやっていると、いろいろなものに巡り合います。
     岡田三面子博士は、単なる一川柳家ではなく、明治新川柳勃興において「川柳中興の祖」の一人にも数えられますね。師が蒐集、研究した川柳評万句合や柳多留類が、後の古川柳研究のベースになっていますし、私どもの基本資料の多くを三面子博士の礎に寄りかかっていますので、何より素晴らしい貢献でしたね。
     葉山のどの辺りにあるのでしょうか? あの辺は、彼女?とのドライブでずいぶん行きました。娘ができてからは、夏は隣の逗子海岸に行っています。
     「柳多留250年」の2015年11月は、三面子博士の80年忌です。関わりのある柳人の手で、記念の回顧句会などの行事も大切なことでしょう。
     文芸川柳の大きな節目の年でもあり、是非実現したいものですね…。
     よろしくご指導お願い申し上げます。

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