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一昨日前に、久し振りに紀雍子さんから電話がありました。
お互いに早口で、あれもこれもとつもる話をしたんですが、「加藤哲郎さんの自由の広場、あれいいね、楽しみにしてるって伝えてね」「了解、蒲郡の人なのよ、哲郎作品は読みやすくって温かいものね」

カネは鳴らなかった「のど自慢」 加藤 哲郎
多産系の母親は陸軍大臣から表彰されるくらい子どもを沢山産んだ。兄妹は八人、みんな歌が好きだった。私や弟は食事中でも箸で茶碗を叩き歌いながら食べるので両親は怒鳴りっぱなしだった。小さい頃、私は結構ませた子どもだったようで四年生の頃には「トンコ節」を歌っていた。家にはラジオが無かったがどこで覚えたのか〽さんざ遊んでころがして…と意味は判らなかったが大きな声で歌っていて母親から叱られた。
さて私が「デビュー」したのは中学三年生、村の芝居小屋で「のど自慢大会」が開催され兄弟揃って出場した。長兄が「有楽町で逢いましょう」を歌って優勝、私は六位、次兄が九位で弟が十三位だった。賞品に私は大きなバケツをいただき母親を大いに喜ばせた。
時代は下がって昨年十一月二日、我が町に本物のNHK「のど自慢」がやって来た。出たいと思っていたが何せ応募者は数千人もいるらしい。その中から予選会への通知が来るのは二五〇人、そこで予選を行い晴れて二十組がテレビで全国に放送されるのであるがとにかく至難の業である。応募はがきの書き方ひとつで予選会の出場が大きく左右される、と聞いた。かつて私はNHKの「のど自慢」に二回出ている。昭和三十六年一月高校生の時に豊橋公会堂で出場、曲目は「サビタの花」。カネは一つ鳴った。次が昭和三十七年七月名古屋のCKホールで、曲目は歌曲の「出船」また一つカネが鳴った。応募はがきにこう書いた、「今までカネを二ついただきました。あと一ついただけると三つたまって『合格』のど自慢卒業します」と書いたら吉報が舞い込んだ。
予選会当日はもうドキドキだ。カラオケ大会七本のトロフィーの威信に掛けても、と大いに意気込み町民会館へ行くと長蛇の列、多くの人から「頑張れヨ」の声援にハイッ!と脳天から返事をしていた。十一時四十五分予選開始。「一〇四番、白い花の咲く頃」、マイクの前で歌ったのは三十秒足らず、あっけなく終わった。
六時間後出場者が発表された。「一〇四番」のコールは聞けなかった。私は「自分の枠を誰かに譲ってあげた」と思ったら何か気持ちが軽くなった。(心の中で号泣した)。テレビで見る小田切アナウンサーとお話し出来たし、自分なりに精一杯頑張ったので悔いはない。でもあと一つ、カネが鳴って欲しかった。

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