
2月18日、大根に用事が出来て待乳山の聖天様を参詣。
大根を奉納してお参りをするという奇風の残る神仏。
聖天をてんぷらにして願を掛 貴丸
という句が誹風柳多留62篇に見られるのですが、大根の天麩羅ではなさそうです。
いにしえから二股大根は聖天様の好物として知られ、
ニタまたを出つかいにして持て来る 安永四義
といった句も見られます。「聖天を天麩羅」とは、いったいどういうことでしょう。
実は、聖天様の供養は、「浴油」と言って、沸かした香油をかけて行います。お釈迦様の「甘茶供養」と似た作法ですね。
聖天様のある待乳山も、江戸川柳によく出てきます。
まつち山から見おろしてくわだてる 樽16
さて、何を企てるのか・・・?
もちろん、山から見える「吉原」へ繰り込もうという企て。また、こんな句もあります。
真乳山是から先キハ伝授事 宝暦十義2
「伝授事」とは「秘儀」。それはもちろん男女の事。
聖天様のお姿は、象頭人身の男女の合体像。好物は、二股大根。少し先に新吉原と揃っていれば、この句も知れて参りましょう・・・。

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江戸時代の吉原遊びには、単なる性欲処理や遊興を超えて、「男の作法・粋(いき)を磨く場」という側面があったろうから、男の器・人としての深みのある「通人」のたしなみのひとつに川柳があった、と考えていいのでしょうか。とすれば現在の川柳は、粋からずいぶんと野暮を語ることが多くなったものですね。
ありがとうございます。
通人は、どうも川柳ではなく「和歌」が必需だったようですね。
やっと四代目川柳の頃、すなわち化政文化期になって、北斎や柳亭種彦、歌舞伎役者、芸人など文化人が江戸の大店の主人と新しい文化サロンを形成し、川柳というものも江戸の知識人の手に広がっていったようです。
武士も一時、多く川柳を嗜んでいましたが、蔦重が出て、狂歌が流行すると、かなりの作家が狂歌に出てしまい、初代川柳時代の隆盛は、いったん下火になったのです。
初代川柳時代は別にして、四代目川柳の頃の川柳は、流行したとはいえやはり「一派」のもので、「内側の世界」でした。句会参加者とい閉ざされた世界である以上、あまり広がることがありません。
今私が、公募川柳に重点を置いているのは、「不特定多数」の参加が可能な「開かれた」川柳を意識しているからです。
文芸として最先端を目指す、尖った作家意識の作品を生み出しながら(これを忘れてはいけません)、開かれた世界での作品にも目を向けないと、川柳は、やがて滅びてしまうでしょう。
AIにも不可能な作家としての作品を与生氏には、開き続けて欲しいと願っております。
私も、意識だけは持ち続けて、作句にあたりたいと思っております。
よろしくお願いいたします。