庭に植えているツワブキが咲いて、秋が来たことを教えてくれている。ツワブキは伊方町の花で、私は伊方へ行くまでツワブキを知らなかった。
40年程前、会社の通勤バスに名前を付けることになり、「つわぶき」を出しておいたら入選して、それに決まった。今も「つわぶき」と書かれた通勤バスが走っているに違いない。
伊方町の道の駅「きらら館」にはツワブキの粕漬やツワブキを漉き込んだ手作り和紙を販売しており、私も偶に購入している。ツワブキを見るだけで現役の頃のあれやこれやが思い出される。あの人・・・どうしているかなあ。
今日は愛媛県視覚障害者文化祭があり、私は川柳部門の入賞作品の発表と選評を行う。今年もいい作品に会うことが出来た。
家内は高野山にお参りして帰って来るのは夜遅くなる。天気は良くないが、山行とは違うので、その点は安心している。
Loading...














































おはようございます。会社の通勤バス、ご自分が名づけた「つわぶき」が走ってるなんてステキ(*゚ ∇ ゚ )ウェ~イこんど見かけたらぜひ画像を!
いつも一日を充実してお過ごしの先生を見習いたいです。
なごみさん おはようございます。現役の頃は標語などを考えるのが好きでよく応募していました。今も松山の会社のシャッターには私が考えたキャッチコピーが描かれています。近くの道路には私が考えた標識が建っています。名前は書かれていませんから知っているのは私だけです・・・・・。ありがとうございました。
なんと!
あのつわぶきも田辺さんが産みの親でしたか!
それは知りませんでした!
あちこちに田辺さんが歩かれた跡が残っていますね(≧∇≦)
昭和51年ごろ当直勤務が始まり、直バスの名前の募集がありました。夜勤の時、私の直のメンバーで寝ないで150ぐらい考えて出しました。その時のメンバーの頭文字「あ」「か」「い」「た」「こ」から「赤い蛸」というのも出しましたが、もちろん没でした。「赤い蛸」の絆はその後も続いて私が退職する時、送別会をしてくれました。いい思い出です。ありがとうございました。
高知の進水さんがツワブキ知らなかったとは驚きです。もともと、ツワブキは暖かいところを好み、山の南斜面に育つ植物です。明治41年生まれの私の母は、台湾の基隆(キールン)の小学校を出ていますが、その母がよく言っていたのに、台湾では、ツワブキを、日本のワラビのように、茹でて灰汁を抜き、塩漬けにして食べていたそうです。また、私の小学校のころは、呉の近くの下蒲刈島の田舎暮らしの母子家庭でしたので小遣いに不自由をし、春先にはワラビやツワブキを採って売り、小遣いにした、ほろ苦い思い出があります。ちなみに、我が家の庭にも、1週間くらい前は満開でしたが、いまは、少しくたびれています。
。
そうでした、私は花といえばひまわりとチューリップくらいしか分かりません。改めて家内に聞いてみると、もちろん中村にもあって、おかずにして食べていたそうです。「知らぬは亭主ばかりなり」でした。申し訳ありません。
山に登っても高山植物を観て家内は「あれは○○、これは△△」と教えてくれますが私には全く分かりません。恥ずかしい限りです。ありがとうございました。
野村賢悟様
いまは亡き明治39年生まれの父は戦時中、東亜海運という会社に勤めていて、
ある時期、転勤で台湾の基隆(キールン)や履門(アモイ)に住んでいました。
現地ではマラリアに感染し、帰国後も時々発症していたことも思い出します。
その会社は現在東京湾フェリーと名を変えて久里浜で営業しております。
懐かしい地名を読んで思わず筆を いやキーボードを叩きました。
昨日、川柳まつやま誌12月号の原稿を印刷に出して一息ついています。
ありがとうございました。
小林暁星様
柳誌編集マニュアルの時には大変お世話になりました。いろいろ参考にさせていただいています。私の父は、明治40年生まれで、18歳(大正14年)の時海軍に志願して、機関兵として、主に戦艦伊勢に乗船してその後、巡洋艦矢矧、ほかに潜水艦に乗り組んで、中国沿岸や台湾あたりによく行っていたようです。昭和7年に江田島兵学校勤務の時昭和8年、私は江田島の生まれです。しかし、幸か不幸か、昭和13年に父は他界し、私は写真でしか父を知りません。進水さんにはいつもお世話になっています。これからもよろしくお願いいたします。