昨日に引き続いて、『茶の本』。
岡倉天心に言わせると、「茶道は姿を変えた道教なのである」と言います。
その心。
一つは、「相対性の認識」。
これは、何となく分かりますね。
「道」は字義としては通路。道教においては宇宙の根本原理であり、何事によっても規定されないものと考えるとか。
また、道とは「移り変わる」ことであり、ひとつの真理がさまざまな姿を取りうるという認識を表している、とも。
「ひとつの真理がさまざまな姿を取りうる」ということを、酢の味見のたとえ話で、以下のように解説しておりました。
酢の壺(人生の象徴)に指を浸して3人の有名人が味見をした。
実際家の孔子は「酸っぱい」と言った。仏陀は「苦い」と言い、そして、老子ひとりが「甘い」と言った。要は、固定的な観念というのは相対化され得る、と言うことなのでしょう。
もう一点が、「不完全性の美学」。
「不完全」「未完成」であることによって、その先に「完全なり完成に向かって、無限の可能性が開かれる」というのです。
老子独特の「虚」という概念。本質的なものは「虚」のうちにしかない。と。こちらも例を引いており、部屋というものの実質は、空っぽの空間にあると。水差しが役に立つのは、形や材質ではなく、水を入れるというからっぽの空間にあるのだ、と。
う~む。何だか分かったようで分からない部分も、正直言ってありますね(笑)。しかしながら、以下の点だけは確かでしょう。
《 茶の歴史を振り返ったとき、茶そのものも、その背景にある老荘思想、道教、禅などの哲学もすべて中国でうまれたものであるが、それらが融合され、茶道として完成されたのは日本においてである。》
《茶道は日本で完成された。中国で廃れた茶の理想は日本において引き継がれ、茶、老荘思想、道教、禅もまた、日本において、「茶の哲学」として完成された。》
う~む。
茶道は深い。いやいや、茶道も深い!