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(日本の近現代史を折りに触れて学んでいます。)
ペリリュー島。
パラオ本島から南に約50㎞。南洋に浮かぶ小さな小さな島です。
この島を米軍はどうしても奪取したかった。緒戦で敗れたフィリピンを奪い返すために。さらには台湾・沖縄から北上して、九州に上陸する日本侵攻ルートを確保するために。
作戦を前に米軍の将校は、こう言い放った。“ Three days maybe two ”(3日、もしくは2日で戦闘は終わる!)
昭和19年8月30日、米軍の上陸作戦が始まった。米軍は5万もの大部隊。上陸前には、空爆や艦砲射撃を、これでもかと思うほど繰り返した。その上での上陸作戦の敢行だった。
対する日本軍は、わずか1万1000名。指揮したのは中川洲男大佐。それから、2年と8カ月。日本軍は困難ななかを戦い続けて、ペリリュー島守備隊は米軍に帰順(「降伏」ではないという)した。時に、昭和22年4月22日。終戦後、ナント1年8カ月も経っていた。
「話が違うじゃないか!」、上陸作戦は屈強な米海兵隊員らを恐怖のどん底に陥れた。焼き尽くしても焼き尽くしても、夜襲を仕掛けてくる日本兵。撃っても撃っても立ちあがる日本軍兵士。米軍のなかには、日本軍への恐怖のあまり精神に異常を来す兵士が続出したという。
……こんな風に書いていくと、苛烈な戦闘、オソロシイ死闘ばかりがイメージされるが、小生が書きたいのは死闘ではない。次なるエピソードである。
日本軍将校は、米軍による降伏勧告放送やビラに綴られた下手な日本語を笑いのネタにしていたという。それどころか、逆に米軍に対して米軍の投降を促す宣伝ビラを用意していた(実際には配布されなかった)というから、ぶったまげた。案文は以下であった。
《アメリカの勇敢な兵士に告ぐ。諸君らは、上陸以来、苦難の連続であろう。苦難に喘ぐ諸君らに、きれいな飲料水ではなく、銃弾しか贈ることができないのは、大変申し訳なく思う。我々は間もなく、諸君らに大攻勢をかけるつもりである。今からでも遅くはない。武器を捨て、白い旗(もしくはハンカチ)を掲げて、日本軍に投降したまえ。我々は諸君らを歓迎すると共に、快適に持てなすつもりである。》
正直、上記の「余裕」には驚いている。
我々は、戦後に形成された「常識」や「先入観」「既成概念」にどうしてもとらわれがちになってしまう。戦争・戦闘と言えば、悲壮なもの。この点だけがクローズアップされる。しかし、上記の宣伝ビラを見よ。にわかには信じがたいが、事実だとすればこうしたエピソードは何故生じたのか? 「戦争一色」と単純化されている時代背景に小生は注目したい。
というのは、「英語は、敵性語ゆえに学ぶことはなかった」という俗説。これは明らかに一面的である。少なくとも将校クラスは、英語を捨てることはなかった。(だから上記のエピソードも信じるに値する、という訳なのだ。)
長くなったが、ペリリュー島の死闘、その一面を感想も含めて記させて貰った。

(参考文献:『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか』(井上和彦、PHP研究所ほか)



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